<よい言葉⑤> 学ぶということを知っている者は誰のせいにもしない

   

第1営業部から、シュウトウです。
こんにちは。

シリーズ<よい言葉>も第5弾になりますね。
たくさんあって選ぶのに結構苦労するのですが、今回は”キング・カズ”ことプロサッカー選手の三浦知良さんの言葉を取り上げたいと思います。

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学ばない者は人のせいにする。
学びつつある者は自分のせいにする。
学ぶということを知っている者は誰のせいにもしない。
僕は学び続ける人間でいたい。

(三浦知良『やめないよ』/新潮新書)

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個人的にはサッカーへの興味が薄く、これまで三浦選手の活躍をつぶさに見てきたわけではありませんが、とはいえ、彼が日本サッカー界に与えてきた影響は絶大で、その存在は唯一無二であることは重々承知しています。
その人の言葉ですから、その重みたるや半端じゃない。

そして、自分も馬齢を重ねつつその通りだと感じています。
解釈は人それぞれですが、ここではシュウトウが感じたことをお話します。

基本的には三段論法で、

「学ばない者」<「学びつつある者」<「学ぶということを知っている者」

という人としての姿勢をとって、

「人のせいにする」<「自分のせいにする」<「誰のせいにもしない」

という人間性の成長の節を分かりやすく”見える化”してくれています。

「学ぶ」ということは努力であり、前進しようとする前向きな姿勢です。
「学ばない者」とは、すなわちその努力の価値を知らない者なので、他人の重ねた努力や姿勢に対するリスペクトはなく、だから自分の不満を平気で人のせいにできる。

しかし「学ぶ」ことの価値に気づいたとき、はじめて自らも研鑽を始め「学びつつある者」となるわけですが、そうするとその努力の大変さや尊さを実感するとともに、自身の未熟さを痛感し、過去を後悔し未来に悩んで、現在の結果に対しては自責の念を深くします。

ところが、ここまではいずれも結果に囚われている状態。
真に「学ぶということを知っている者」とは、「学ぶ」過程や前進しようとする姿勢にこそ価値を見出し、振り返って得た反省を将来に向けて活かすことができる人であって、その時々の結果には必要以上に拘泥しない。
だからこそ結果をもって自分を含めた誰か(何か)のせいだと責めることが、いかに無意味なことか分かっているのです。

あくまで個人的な解釈ですが、それは実に仏教的、特に禅的だと感じました。
禅の伝える仏性の捉え方、修行と悟りとの関係性は、これに近いのではないかと思います。

しかも、キングはその先のあり様として「学び続ける人間でいたい」と宣言しています。
それこそ「学ぶ」ことの本質であり、その実践こそが尊く、人として歩むに値する道だと言っているように感じます。

彼が選手を辞めず、一貫して「学び続ける」姿勢を崩さず、自分と向き合う姿は、まさに「菩薩」。
禅とは哲学でなく実践であると言いますが、彼の生き様こそ禅であり、そこから生まれる言葉だからこそ、比類ない存在感を持って我々の心の奥深くに届くのでしょうね。

さて、偉そうに書いてきましたが、それは一応もっともらしくしないと記事として微妙だから(笑)
実際には「さすが」としか言いようがないですよね、ほんと。
同世代の自分としては、厳しいプロの世界で現役を張っている彼の姿にすごく勇気をもらいます。
これからも頑張って欲しいと思います。

さあ、明日も天気。
明日も実践じゃ。

現場からは以上です。

 - 1F 第1営業部