<よい言葉⑥> それなのに、人間の方が賢いということになっている
シリーズ<よい言葉>担当ディレクターのシュウトウです。
今回は、皆さんご存じの『名犬ラッシー』から生まれた名言をご紹介しましょう。
『名犬ラッシー』は、1938年にイギリス系アメリカ人作家のエリック・ナイトにより発表された短編作品をオリジナルとして、これまでに映画やアニメなどで度々リメイクされてきた世界的名作です。
最初の映像化は1943年版の実写映画だそうですが、それから半世紀に渡って廃れるどころかずっとリメイクされ続けてきた訳ですから、時代を超えて愛されてきた物語といえますね。
個人的にはハウス食品提供の『世界名作劇場』版アニメ(1996年1月14日~ 8月18日)の印象が強いです。
詳しい内容は知らないという人でも「ラフ・コリー(犬種)」を見ると「ラッシー」というイメージを持つ人は多いんじゃないでしょうか。
さて、そんな数多いリメイク版のなかから、2005年制作の実写映画『名犬ラッシー』のセリフ中に、今回取り上げたい名言はあります。
事情あって愛する飼主の少年と離れ離れになってしまったラッシーが、少年のいる故郷への家路を辿る苦難の旅の途中、ある小人症の旅芸人と出会い心を通わせる場面。
一行が森で暴漢に襲われ、旅芸人の相棒犬が飼主のために勇敢に戦いますが、殺されてしまいます。
ラッシーの奮闘でなんとか難を切り抜けますが、愛犬を惨殺され憔悴する旅芸人にラッシーが優しく寄り添います。
そのとき旅芸人がラッシーにかける一言。
「おまえは人の言葉が分かるのに、俺には犬の言葉はわからない。
それなのに、人間の方が賢いということになっている」
そうなんです。そのとおり。
確かに、知能が高いことがすなわち「賢い」ということではないんですよね。
「賢い」というのは、知能を活かせるということ。
人間がいくら他の動物よりも発達した脳を持っていても、その脳を使って大量殺戮兵器を作って戦争をし続けているんですから、これは「賢い」とは到底言えません。
それから、これは個人的な意見ですが、このセリフの「言葉」は「気持ち」とも言い換えられます。
つまり、自身の行動原理に他者への配慮や思いやりを持てるか、ということも「賢い」か否かの基準なのではないか、と思うのです。
人間が他者や社会、環境に対する配慮をおざなりにし、短期的な自己の欲望を満たすことを利益と見なしてしまうのは、歴史を振り返れば、やはり「賢い」とは言い難いようです。
でも、いつの時代も目先の利益に囚われてしまうのが人という生き物です。
犬は長期的戦略として人間と共存する(人間の役に立つ)という選択によって野生では得られない種の繁栄を獲得したと考えると、人類は犬に利用されている(人類はそれを意識していない)、それだけ犬の方が「賢い」ということになるのかもしれません。
「人は賢い」というまでには、我々はまだ進化できていないようです。
※ 写真は、我が家の『迷犬はなめ』です。