「他山の石」と「せず?orする?」
こんにちは!近年のネット社会に警鐘を鳴らしている八重樫です。
さて、今回は今読んでいる本からネット社会に生きる我々のあり方を深く考察してみます(大げさです)。
私が座右の銘としている言葉はいくつかありますが、そのうちの一つとして今回のタイトルにもある「他山の石」があります。
私ははじめから意味を知った上で用いているので意外でしたが、現在この言葉の誤用が目立つそうですね。
皆さんもどちらが正しいか考えてみてください。
A 今回の同業他社の不祥事を「他山の石とせず」、自分事として自社の改革に努める所存です
B 今回の同業他社の不祥事を「他山の石とし」、自分事として自社の改革に努める所存です
さて、どちらが本来の使い方でしょう?
正解は・・・・
越後製菓!
ではなく、Bです。
どうでしたか、Aだと思った方意外といないでしょうか。
おそらく勘違いしていた方は、「他人事とせず」や「対岸の火事とせず」と混同されたのではないかと思います。
他山の石の本来の意味は・・・
「他人のつまらぬ言行も自分の人格を育てる助けとなる」
というものです(文化庁文化部国語課のHPから引用)。
出典は中国の書物である『詩経』からのようです。
他山の石にいう「石」とは、「玉石混淆」のことわざでも用いられる「石」と同じですね。
そう考えると、「石」=「他人のつまらぬ言行」ととらえることが容易になります。
そして、「よその山から出た粗悪な石も、自分の宝石を磨くのに利用できる」ということから先の意味につながります。
さて、ここからが本題。
ネット社会に生きる我々は、日々膨大な量の情報を取り込んでいます。
とりわけSNSが発達してからは、私たちはあたかも当事者のようにあった出来事を知り、思いを述べ、他者と交流しています。
それには良い一面もあるのでしょう。
今まで知り得なかったことを知ることができる、というのは素晴らしいことです。
しかし、そういった情報に触れたあとの私たちの対応はどうでしょうか。
「他山の石」という姿勢には、ある種傍観者としての心構えといった要素が含まれていると考えます。
そうなんです。あくまで私たちはマスコミやSNSを通して触れる情報の傍観者なんです。
最近、ある事件の報道に対する国民のリアクションを見ていると、傍観者ではなくまるで当事者のように感情を露わにし、誰かの意見を批評し、進んで事件に飛び込んでいるように見えます。
私はそこに怖さを感じます。
瞬間的な熱狂、同調圧力、冷静な傍観者への弾圧・・・。
私は当然戦争を体験していませんが、戦争へと至った国民の感情の高ぶりと同じようなものをどこか感じています。
当時はそういった国民感情の操作として新たに普及したラジオ放送が用いられました。
日本に限らず世界には、童話、寓話等のいわゆる教訓話が数多くあります。
近年新たに普及したSNSを利用され、戦争とは言わずともあらぬ方向に進んでしまわないよう、「他山の石」の精神を忘れずにいたいと思います。