ものをつくるか、つくらないか

   

自称不動産王のシュウトウです。

深い意味はありません。

さっそく本題。

仕事というものをある基準をもってグループ分けしようとするとき、その基準には様々な視点が考えられます。
例えば「営業職と事務職」とか「雇用者と被用者」、「正規雇用と非正規雇用」などがそうで、各々さらに細分化することもできるでしょうし、横断的な場合もあると思います。
そんな基準のひとつとして、私が普段から気にしているものが「ものをつくるか、つくらないか」。
堅い表現を使えば「一次・二次産業と、三次産業」というくくり方ですが、「ものをつくるか、つくらないか」にはもう少しゆるい、感覚的なニュアンスがあります。

「ものをつくるか、つくらないか」

私は、不動産の取引を仕事ととしています。
不動産は「もの」ですが、取引(=dealings)に関わっているだけなら「つくらない」側です。
同じ不動産に関わる仕事でも、設計や建築は「つくる」側。
別のグループに属します。

また、当社の姉妹会社である行政書士法人を考えると、行政書士という仕事は基本的には「つくらない」側ですが、しかし、例えば上記の建設業を行う会社を設立するための行政手続きを行うという側面は「つくる」側とも言えそうです。
これは前述の感覚的なゆるさが影響していることで、絶対どちらかに分類するというような努力は不要で、そういうふたつの要素が混ざっていると考えます。

もう一例挙げれば、喫茶店があったとして、そこで提供されるサービスは厳密には「もの」ではないかもしれませんが、そこで提供されるコーヒーや空間はお店が「つくるもの」とも言えます。

さて、そもそもの話ですが、この分け方に何か普遍的な意義があるとか、そうカテゴライズすることにメリットがあるだとかいうものではありません。
シュウトウがほとんど無意識にしている、直感的な「違い」の捉え方だと思ってください。
ただ、これが自分には重要な気がしている、という話なのです。

なぜか。
それは、対価の基準に対する違いを意識させるからです。

「ものをつくる」仕事は、比較的その対価の基準が明確になっているのに対し、「ものをつくらない」仕事は、対価の基準が漠然としていることが多いように思います。
もちろんすべてがそうということではありませんが、「ものをつくる」ことの対価はその「もの」の価値によるところが大きく、それはある程度客観的な基準に基づいて価格が調整されることを意味します。
一方、「ものをつくらない」仕事の対価は、基本的には提供されるサービスによるのですが、必ずしもサービスの質や量がそのまま価格に反映されるとは限らないように思います。

もう少し分かりやすく言います。

不動産に関わる仕事のうち建設業ならば、その建物を建てるために必要な原価に報酬を加えて価格が決まります。
価格の大半を占めるのは原価となる資機材費や人件費で、これはある程度客観的な数字です。
また報酬の多寡は、理論的には市場原理によって良い建物(仕事)はより高く、悪い建物(仕事)はより安くなると考えられます。
支払う側からは「もの」の良し悪しが概ね価格に反映しているように見える分、客観的でフェアな競争が期待できます。

しかし、不動産の取引、つまり宅建業はどうでしょうか。
法令により媒介報酬の上限は利率として定められていますが、例えば、1000万円の土地の売買仲介における最大報酬額は36万円(税別)なのに対し、1億円の土地の売買仲介における最大報酬額は306万円(税別)となります(※注)。
この金額差が真に仕事の対価の違いを表すかというと、1000万円の土地の売買仲介と1億円の土地の売買仲介とでは、実際にはその労力や業務の難易度にほとんど差はなく、提供すべきサービスの質に8.5倍の違いを見出すことはできません。
むしろ提供されるサービスに8.5倍もの差があったら、その方が問題です。

※ 400万円を超える土地の売買のとき、媒介報酬の速算方法は次のとおり: 土地の価格×3%+60,000円

法令が利率で上限を決めているのは、取引における売主・買主の利益に対する負担を前提にするからだとは思いますが、そこには「仕事の対価」という要素はあまり考慮されていないと感じます。
また、市場原理が機能しにくい仕組みですし、支払う側からはどこにその価値があるのか見えにくいとも言えます。

ところで、靴職人が顧客からオーダーを受けて一足の靴をつくりあげるのには、サイズを測り、デザインをし、型紙をつくり、木型を削り、調整のための仮合わせの靴をつくり、何か月もかけてようやく製品となる靴を仕上げます。
そのため一足数十万円しますが、その労力や誂えられた製品に対する対価であることははっきりしているため、顧客にとっては支払うべき価値があるか否かは判断しやすいのです。
靴職人という仕事は「つくるもの」の価値をストレートに審判される仕事であり、非常にストイックな半面、私には美しい仕事に感じられます。

真摯に自らの仕事の質に向き合うことや、顧客の満足で淘汰されることの厳しさは、靴職人のみならず「ものをつくる」すべての仕事人にとってはあたり前すぎて、言うまでもないことでしょう。
そうでない「ものをつくらない」仕事に携わる人は、殊更強く自らの提供するサービスの質を意識すべきですし、それが支払う側の満足に沿ってはじめて正当性を持つのだということを肝に銘じる必要があると思います。
わけても、不動産の売買仲介業を行う我々は。

本来、不動産というものは資産価値が高く、その取引には重大な責任と、広くかつ深い専門的な知識や経験が求められます。
それを全うするからこそ報酬も高額になりますし、経済として正当性を持つのです。

私は、お気に入りの喫茶店でゆっくりとコーヒーを飲むとき、職人さんにつくってもらったとっておきの靴に足を入れるとき、いつも自分が「ものをつくらない」側の人間であることを意識させられます。
そして、その都度、自らの仕事の質や顧客の満足、報酬が何の対価としてあるのかを改めて胸に刻みます。
あたり前のことなのに、ともすると忘れそうになるので。

そういう訳で、「ものをつくるか、つくらないか」という線引きは、シュウトウにはとても大切な基準なのです。

 - 1F 第1営業部